LEGENDS OF THE MAESTROS  

Piano Music from the Carnegie Hall's Golden Years
Akira Eguchi plays at Carnegie Hall



2003年6月に発売されました。
このCDが月刊レコード芸術、2003年9月号にて、
特選版に選ばれました。


 カーネギーホールでの録音前日の夜に、初めて触れたこの115歳のピアノは、決して扱いやすいものではなかった。ホロヴィッツが恋に落ちたそのピアノは、ついにその長い冬眠から目覚めたのである。この楽器は、タカギクラヴィアの高木 裕氏の依頼により、ホロヴィッツから絶大なる信頼を受けていた名調律師、フランツ・モア氏によってホロヴィッツ用の調整を施され、再び息を吹き込まれた。そして、この霊気ただようピアノは明らかに何者をも寄せつけまいとする意志を持って、あたかも、お前に私を弾きこなすことができるか、とでも言いたげに、戦いを挑んできた。 普段弾き慣れている現代のピアノとは全く違う音色とタッチに戸惑いをかくせない。自分の持つ音に近付けようとすればする程、かたくなに拒まれる。正直に言うと、私にはこのピアノを弾きこなすことは無理ではないかと思いはじめたのであった。
 だが、 半時間ほど経過したある一瞬に何かが変わったのを感じた。それまで私はこのピアノに自分の音を求め、強要していたのであった。この楽器にはこの楽器にしか持ちえないすばらしい音が存在し、私はこのピアノに全てをゆだねようと思ったのである。その音を見つけた瞬間からは、世界が全く変わった。まるでその楽器が私に様々なアイディアを与えようとしているかのようである。弾けば弾く程、その楽器から出る意外な、しかし心地よい音に驚かされ、ただ幸せなため息をつくのみ。まさに魔性の名器であった。
 今回録音された曲を作曲、編曲したピアニスト達の何人かは、1890年代から1900年代にカーネギーホール(1891-)、旧メトロポリタンオペラ劇場(1883-1966)において、確かにこのピアノを演奏したはずである。当時の一般的な演奏スタイルとしてパデレフスキーがテンポルバ−ト、およびテンポの変化の重要性について著書の中で記述しているが、彼より二世代ほど前にあたるショパンも持論の「左手はメトロノームのように正確に、メロディーは自由に」という観念から著しくはずれて、時にはテンポ自体が根幹から大きく揺れ動くような演奏をしていた、との証言もある。 ここに録音された音や音楽様式は、一般的な現代のピアノの録音とはかなり異質であり、それらに耳なれた聴き手には意表をつくものかもしれない。現代に録音されたものとは信じがたいかもしれないし、また歴史あるホールとこの古い楽器自体から発せられるノイズが聞こえるかもしれない。 しかしこれが、約百年前の聴衆がこのカーネギーホールで耳にしたであろう音そのものなのである。この暖かく懐かしい音、そしていくぶん前時代的な音楽のスタイルをどうか受け止めて楽しんでいただきたい。

 このすばらしいピアノの所有者であり、またこの録音を企画、実現してくださったタカギクラヴィア社長の高木裕氏と同じくタカギクラヴィアの加納女史、貴重な楽譜を提供して下さった夏井氏、現地での協力者であるFSIエンタープライズの小島氏、エンジニアの岡田氏、ディレクターを務めた妻の愛里、カーネギーホールをはじめとする関係者の方々、そして、録音中にホールの客席で、その音を聴きながらときおり涙ぐんでいらっしゃったフランツ・モア氏に、心より御礼申し上げたい。


使用ピアノは1887年製、ニューヨークスタインウェイ。1891年にカーネギーホールがオープンした時にステージ上に置かれていたピアノである。当時の名ピアニストたちがそのステージでこのピアノを演奏し、ホロヴィッツが1986年来日の際、一目惚れをしたピアノとして有名。



 
フリッツ・クライスラー(1875-1962)/セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)
 クライスラーとラフマニノフという、同年代の、いわば陽と陰、軽妙さと重厚さという対照的な二人は、演奏上のパートナーとして名演の数々を残しているが、作曲家同士としても互いに尊敬する間柄であったことは想像に難くない。クライスラーがラフマニノフの「ひなぎく」を、そしてラフマニノフがクライスラーの愛らしい小品、「愛の喜び」と「愛の悲しみ」を編曲した。これらがラフマニノフの手に掛かると原曲がヴァイオリンのために書かれた曲であることを忘れさせるような、自由奔放で、もはや小品とは言い難いほどの圧倒的迫力(愛の喜び)とラフマニノフ固有の陰影を持った(愛の悲しみ)、技巧を凝らした曲に仕上がっている。ラフマニノフのカーネギーホールデビューは1909年であった。


イグナチ・パデレフスキー(1860-1941)
 熱烈な愛国者、1919年にはポーランドの首相にまでなったパデレフスキーは、カリスマ的魅力を持ったヴィルトゥオーゾであり、その演奏スタイルはテンポルバート(彼自身は自由に揺れ動くテンポを意味していた様である)をなによりの魅力としていた。「メロディーOp.16-2」は28歳頃の作品であり、美しく懐古的な旋律の中にも、パデレフスキーのピアノへの、あるいは愛する祖国への強い情熱があふれ出す小品である。1891年、まさに完成したばかりのカーネギーホールで演奏した。


シューラ・チェルカスキー(1909-1995)
 チェルカスキーの生年については、長い間1911年とされてきたが、晩年生地オデッサに出向き、自らの調べにより、1909年であることが判明した。この「悲愴前奏曲」は1923年にアメリカで出版されているが、彼の経歴にはロシアからアメリカに移住してきたのがその1923年と記されており、年代からすると少なくとも14歳以前に作曲されたものが、アメリカ移住と同時に当地で出版されたこととなり、さらに付け加えるならば、バルティモアでのアメリカデビューもその1923年、カーネギーデビューは1926年、若干17歳である。それらの事実は驚愕的かつ特筆に価するものである。この曲にはタイトルも内容も、ロシア革命の不安定な情勢の中で幼年時代を過ごした天才少年ピアニストの純粋さ、ひたむきさが率直に表されている。


レオポルド・ゴドフスキー (1870-1938)
 1891年の春、チャイコフスキーによるカーネギーホールのオープニングコンサートの二週間前に、非公式ながら、ゴドフスキーがこのホールで演奏している。名だたる技巧派ピアニストとして様々なオリジナル作品、及び編曲作品を残しているが、この「こうもり」はピアニストの誰もが認める最難曲の一つである。その困難さゆえなかなかコンサートで演奏される機会も少ない。様々な旋律とモチーフが同時に現われ、複雑にからみあったポリフォニーを織り成し、幅広い音域での跳躍が音の洪水を生み出す。しかしながら、実際には名ピアニストが自分のために作曲したので、決して理不尽な指、手の動きを必要とするものではない。言うなれば、ピアノを知り尽くした名手ならではの編曲である。


フレデリック・ショパン(1810-1849)/ウィルヘルム・バックハウス(1884-1969)
 ショパンの第一番の協奏曲の第二楽章を編曲したものであるが、残念ながらこの編曲についての資料は、1918年のドイツでの出版であること以外、ほとんど見つけることができない。当時のピアニストとしては異例に多くの録音を残しているが、その中にもこの曲が録音された記録はなく、また他者による録音も、少なくともLP, CDからはみつけることができず、SPにおいては調べるすべもない。そう言う意味では非常に貴重な曲である。内容はあくまでも原曲に忠実、オーケストラパートを適所に配置し、技巧を見せるための編曲とは明らかに違う。これは偉大な音楽に忠実であろうとした、彼の演奏理念の反映でもあろう。カ−ネギ−ホ−ルのデビューは1912年であった。


ヨーゼフ・ホフマン(1876-1957)
 ポーランド出身で、1926年にはフィラデルフィアのカーティス音楽院の学長となったホフマンは、1887年にニューヨークのメトロポリタン・オペラハウスでアメリカデビュー、カーネギーホールでは1898年にデビューを果たしている。チェルカスキーはカーティスでの生徒の一人である。ホフマンは自作の小品を多数残しており、「夜想曲」は1923年に出版されている。同じ年にホフマンはこれを録音しており、それは現在はCDに復元されている。楽譜に忠実でありつつ、自由さを失わないというのが一般的に言われる彼の演奏スタイルであるが、自作の曲ではかなり大胆なルバート、テンポの変化も聴くことができる。楽譜に詳細に書き記された多数の小さな強弱記号、表情記号等から、彼の演奏の理想が大変にロマンティックなものであったことをうかがうことができる。


フランツ・リスト(1811-1886)/ヴラディミール・ホロヴィッツ(1903-1989)
 二十世紀の巨匠、ホロヴィッツが編曲したものの中で最も演奏困難な曲(ホロヴィッツ本人による)であり、古い録音から採譜されたものが現在二種類、存在している。ホロヴィッツのライヴ録音は残念ながらミスも多く(実際には全く大した問題ではなく、見事な演奏であることには違いないのだが、)正しい音がどれなのか、その前後の流れ、手、指の位置から想像するしかない。今回はこれらの楽譜と録音を元に復元したのだが、ここにもピアノの名手による編曲の最も成功した例を見い出すことができる。ラッサンとフリスカという緩急の二つの部分からなり、特にフリスカでの改編は、ホロヴィッツならではの演奏効果が存分に発揮されている。1928年にカーネギーホールでアメリカデビューした。


カミーユ・サン=サーンス(1835-1921)/レオポルド・ゴドフスキー(1870-1938)
 サン=サーンスの有名な小品「白鳥」を、ゴドフスキーが独自の半音階的和声と多声部処理によって編曲し、原曲にはない複雑な陰影をかもし出している。カーネギーホールでは、サンサーンス自身も1906年に自作の交響曲第3番を指揮している。



  カーネギーレコーディングの詳細は、日記2002年6/18、6/19、6/20、7/10、を御覧下さい。
2002年、8月号の音楽の友(P.142)にこのレコーディングの記事が出ました。
タカギクラヴィア社の社長、高木裕氏によるカーネギー録音への所感はこちら、
News:The Carnegie Hallを御覧下さい。
カーネギーホール録音時に写真を撮って下さった、稲田美織さんの作品はこちらをご覧ください。





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